「光る君へ」において描かれる「長徳の変」について、わかりやすくまとめてみました。
「長徳の変」とは長徳2年 (996年) に起きた政変であり、この事件は、藤原道隆の一族・中関白家が排斥されるとともに藤原道長が台頭するきっかけとなりました。
藤原道隆の子、藤原伊周・隆家・定子はそれぞれどうなったのかについてもまとめてみました。
「光る君へ」 長徳の変をわかりやすくまとめ!
「光る君へ」において描かれる「長徳の変」について、わかりやすくまとめてみました。
「長徳の変」とは長徳2 (996) 年に起きた政変であり、藤原伊周 (三浦翔平)とその弟・藤原隆家(竜星涼)と花山院 (本郷奏多)との間で、 従者同士が闘乱に及び死傷者を出した事件です。
この事件は、藤原道隆(井浦新)の息子である 藤原伊周、藤原隆家 が排斥されるとともに、伊周のライバルだった藤原道長(柄本佑)が力を持ち、台頭するきっかけとなりました。
伊周 と道長の権力争い
当時の政治は摂関政治の最中であり、摂関家の座をめぐって藤原家の中でも熾烈な権力争いがありました。
長徳元(995)年4月、関白・藤原道隆が死去すると、その後、その弟・道兼(玉置玲央)が関白の座に就きますが、わずか数日後に疫病により死去。
その結果、道隆の長男・伊周と道隆の弟・道長の間で権力争いが勃発したのです。
伊周は、妹の藤原定子(高畑充希)が一条天皇(塩野瑛久)の妃であることを利用して一条天皇に接近し、また、道長は一条天皇の母・詮子(吉田羊)が一条天皇の母親であることを利用して一条天皇に近付きました。
そしてその結果、道長は右大臣に出世を果たします。
道長は内大臣の伊周を抜き、藤原家の中において最大の権力者となり、そのことに不満を募らせていた伊周。
ちょうどその頃、伊周はある噂を耳にしたのです。
花山院の噂
伊周が耳にした噂とは、「出家した身でありながら花山院が夜な夜な女性宅に通っている」というもの。
花山院は、かつて自身が寵愛した忯子(井上咲楽)の妹・四の君の元に通っており、一方の伊周は、その姉である三の君(「光る君へ」では藤原光子(竹内夢))のところに通っていたのですが、
これを伊周は、花山院が通っているのは自身の妾である藤原光子のところだと勘違いをしてしまったのです。
そして、そのことを弟・隆家に相談。
伊周と隆家の2人は従者を伴い、花山法皇を待ち伏せして襲撃することにしたのです。
長徳の変
年が明けた長徳2 (996) 年1月、従者の武士を連れ花山院を待ち伏せしていた伊周と隆家は、花山院に向かって矢を放ちました。
その矢は花山院の衣の袖を射抜き、従者同士の闘乱に発展。
伊周と隆家の一行は花山院の従者2人を殺害し、その首を持ち去ったとも伝わっており、
また、花山院に向かって放たれた矢も、少し場所がズレていれば譲位したとはいえ法皇である花山院が命を失いかねなかったことから大事件となりました。
しかし花山院は、自身が出家した身でありながら女遊びをしていたことが公になることの体裁の悪さから、事件について口をつぐみ、事件はもみ消されるかと思えたのですが、
この一件を知った道長は、伊周の失脚を狙い、意図的に事件を大きく広めたのです。
藤原伊周・隆家の失脚
事件が大きく広まったことで、一条天皇も藤原伊周と隆家に対して何も罰を与えないわけにはいかなくなり、これにより、藤原伊周と隆家は失脚。
ライバルがいなくなったことで、さらに道長は権力を手に入れるのでした。
「光る君へ」 長徳の変で藤原伊周・隆家・定子はどうなった?
「長徳の変」で失脚した藤原伊周と隆家、また、伊周の妹であり隆家の姉である定子はどうなったのでしょうか。
「長徳の変」後の藤原伊周、隆家、定子についてまとめてみました。
藤原伊周
藤原伊周は、「大宰権帥」(だざいのごんのそち)という役職を与えられ、大宰府(福岡県)へ左遷されました。
長徳3(997)年には、藤原道長の姉・詮子の病が回復しないことで、「大赦」(たいしゃ)が発せられ、都に戻りましたが、
道長によって抑えられ、再び権力の座に就くことはなく、寛弘7(1010)年に37歳の若さで死去しました。
藤原隆家
藤原隆家は、出雲権守(いずものごんのかみ)という役職を与えられ、出雲(島根県)に左遷させられました。
しかし、隆家は病気を理由に但馬国(兵庫県北部)に留まり、出雲に行くことはありませんでした。
そして伊周同様、長徳3(997)年に「大赦」が発せられたことで都に戻り、10月には兵部卿として官界に復帰。
寛弘6(1009)年には中納言に叙任されるなど出世しますが、長和元(1012)年末頃より眼病を患い、出仕することなく邸宅に籠居するように。
その後、大宰府に眼の治療を行う宋の名医がいるとの話を聞きつけたことで大宰権帥への任官を望み、大宰府へ。
『大鏡』によると、隆家は太宰府で善政を施し、九州の在地勢力は心腹したと伝えられています。
また、寛仁3(1019)年3月末には、中国東北部の女真族(刀伊・とい)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻した「刀伊の入寇」が発生します。
50余隻の船団で武装した者たちが突然対馬・壱岐に押し寄せ、老人や子供を殺し、成人を拉致。
家を焼き、家畜を食べるという蛮行に及び、さらには筑紫にまで侵攻。
隆家は九州の豪族を指揮し、これを見事撃退しました。
日本を外敵から守り英雄となった隆家でしたが、12月に帰京し大蔵卿などを務めたものの、大きく昇進することはなく、
長暦元(1037)年に再び太宰権帥に任ぜられると長久3(1042年)まで務め上げ、長久5(1044)年1月に66歳にて死去しました。
藤原定子
正暦元(990)年に一条天皇の元に嫁いだ定子は、一条天皇の寵愛を一身に受けました。
しかし、兄・伊周、弟・隆家が花山院に矢を放ったことを受け、定子は内裏を出て自身の屋敷・二条北宮にて自らも謹慎することに。
伊周と隆家も定子の屋敷・二条北宮に身を寄せていたため、一条天皇は懐妊中であった定子を牛車に移したうえで検非違使を二条北宮に突入させて隆家を捕え、そして、一旦は逃げた伊周も後に捕えました。
定子は驚きのあまり自ら剃髪し、出家。
そして長徳2(996)年12月、定子は一条天皇の第一皇女・脩子内親王を出産しました。
通常なら、定子の出家は一条天皇との夫婦の関係の破綻を意味しますが、その後も一条天皇は定子を寵愛し、生まれた脩子内親王とともに定子を内裏に呼び寄せ、還俗させたのでした。
その後、長保元(999)年11月には、一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産。
翌年の長保2(1000)年12月にも媄子内親王を出産しました。
しかし、媄子内親王を出産した翌日に容態が急変し、25歳の若さでこの世を去ったのでした。
まとめ
「光る君へ」にて描かれる「長徳の変」 についてわかりやすくまとめてみました。
「長徳の変」とは、長徳2 (996) 年に起きた政変であり、藤原伊周とその弟・藤原隆家と花山院との間で、 従者同士が闘乱に及び死傷者を出した事件です。
この事件は、藤原道隆の息子である 藤原伊周、藤原隆家 が排斥されるとともに、伊周のライバルだった藤原道長が力を持ち、台頭するきっかけとなりました。
長徳の変により、 藤原伊周は大宰府へと左遷となり、隆家は出雲へと左遷。
また、一条天皇の元に嫁いでいた定子も、長徳の変を受け、自ら剃髪し出家してしまいました。
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