「大奥」に登場する黒木良順(玉置玲央)にはモデルとなる人物がいるのかどうか調べてみました。
蘭学医・島本良順が黒木のモデルではないかと思われますので、共通点やどのような人物なのかをまとめてみました。
目次
「大奥」黒木のモデルは島本良順?2人の共通点と人物像まとめ!
「大奥」に登場する黒木良順にはモデルとなる人物がいるのかどうか調べてみました。
蘭学医・島本良順が黒木のモデルではないかと思われますので、人物像を紹介しつつ、共通点を下記にあげていきます。
名前が同じ
「大奥」に登場する黒木のフルネームは「黒木良順」。
姓は違っていますが、名前が同じことから「黒木良順」のモデルは「島本良順」である可能性は高そうです。
父親は医者
「大奥」に登場する黒木の父は、蘭学者で医者。
安物を高く売りつけたり、適当な診療をしたりしている父の姿を見ていたことで、黒木は蘭学のことも医者のことも嫌っていましたが、
大奥にて真摯な態度で患者に向き合う青沼(村雨辰剛)の姿を見ることで考え方が変わり、青沼とともに赤面疱瘡撲滅に向けて研究するようになりました。
一方、島本良順も、蘭学医ではないものの、代々漢方医という医者の家柄の生まれ。
後に長崎にて蘭学を学び、地元・佐賀に帰って蘭学医の看板を掲げる一方、門弟を集め、蘭学の講義を始めたことから、「佐賀蘭学の祖」と言われています。
黒木と研究を共にした青沼、源内や田沼の最期についてはこちらの記事にまとめてあります↓
青沼のモデルについてはこちら↓
活躍した時代が同じ
黒木が「大奥」にいたのは徳川家治(高田夏帆)が将軍であった時代であり、後に家治の次期将軍である家斉(中村蒼)に頼まれ、再び赤面疱瘡撲滅に向けての研究を始めることになります。
よって、黒木が活躍したのは、家治の時代から家斉の時代にかけて。
一方、島本良順が長崎にて蘭学を学び始めたのは徳川家斉が将軍職に就いた頃とされているため、2人の活躍した時代はほぼ同じです。
種痘に関わりがある
「大奥」での黒木は、蘭学医である青沼らと共に赤面疱瘡撲滅のための研究を行い、洋書から弱毒性の赤面疱瘡を故意に遷すことで強毒性の赤面疱瘡に罹患することを防ぐ人痘法に辿り着き、これを成功させました。
しかし、その後松平定信(安達祐実)の甥が副作用にて死亡したことで赤面疱瘡撲滅のための研究も中止となってしまいますが、
家斉から頼まれ、赤面疱瘡の研究を再開し、副作用の少ない軽症の赤面疱瘡の熊から膿疱を抽出して接種する熊痘(ゆうとう)に辿り着き、遂には赤面疱瘡撲滅に成功します。
一方、島本良順は直接的に種痘に関わりがあるわけではないのですが、島本良順の門下生であった執行勘造(後の伊東玄朴)は江戸にて「玉が池種痘所」を設置し、赤面疱瘡のモデルとなった天然痘を予防する牛痘種法の普及に尽力しました。
ちなみに、島本良順の設置した「玉が池種痘所」は、現在の東京大学医学部の前身となります。
赤面疱瘡の発生から撲滅についてはこちらの記事に詳しくまとめてあります↓
まとめ
「大奥」に登場する黒木良順にはモデルとなる人物がいるのかどうか調べてみたところ、
蘭学医・島本良順が黒木のモデルではないかと思われますので、共通点やどのような人物なのかをまとめてみました。
・名前が同じ
・父親は医者
・活躍した時代が同じ
・種痘に関わりがある
以上のことから、「大奥」に登場する黒木良順のモデルは、蘭学医・島本良順である可能性は高いように思えます。
ちなみに、「大奥」では熊痘の最初の接種者は黒木の息子ですが、牛痘においては、佐賀藩医の楢林宗健が息子・建三郎に摂取し、始めて成功したとのこと。(正式な成功は、佐賀藩藩主・鍋島直正の息子・淳一郎への接種)
「佐賀蘭学の祖」と言われる島本良順の地元・佐賀にて初めて接種に成功し、それが全国に広がったことについても島本良順との繋がりを感じますね。
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